これも地球温暖化の影響か、日乃本はどんどんと夏の期間が長くなっており、
何なら新緑が萌え始める皐月や、梅雨の時期にかぶさるように始まって、
あまりに過酷な暑気がたれ込めるせいで思わぬ豪雨になることも。
何時の間に明けたのかも判らぬ流れで梅雨が去れば、
セミが鳴き始めるより早く押し寄せるじりつく夏の始まりで。
しかも昼間の焦がすようなレべルの気温が半端じゃアない。
形はないが存在感はありありな熱気がぎゅうぎゅうと押し寄せてくるような炎暑に、
何なら外出は極力控えたいなぁと自然と思うほどで。
だがだがお元気なお子達は、活力を持て余した末に、
学級閉鎖の意味が判っていないのと同じくらいに、この途轍もない暑さの中へでもお出掛けしたいと
大人たちを困らせているとかどうとか…。
そんなこんな、てんやわんやの日乃本のここはヨコハマ。
昼のうちの噎せ返るような酷暑が多少は引いた宵の刻。
冬ならしんとした静謐さばかりが冷たく満ちた夜の闇が垂れ込めているところ、
だが、今の季節は夏の盛りで、
暑気を含んだ宵闇もまたどこかざわざわとざりざりしていて落ち着きがない。
港湾から吹き寄せる風の潮の香も、
むんと湿気を孕んでのなかなかに逞しく。
降りそそぐ月光の冴えも、ともすれば気づきにくいかも。
「……。」
そんな気配も知ったことかと、ただただ一心不乱にどこへか駆けている人影がある。
不思議とほぼ気配はない、武道か何か心得のありそうな足取りであり、体捌きであり。
街路を抜け、港湾地区を抜け、
しまいには未開発の僻地へ至ってもなお、手入れのされぬ草むらもいとわぬまま、
たかたかザクザクと切れのいい歩みを運び続けている。
これからこそが夏の始まりだとばかり、
水遊びやらキャンプやらへと勇んで繰り出す若人のお元気さが眩しい…とするには、
いやに真摯な雰囲気で歩を進める影であり。
さしたる荷もなく、しかも単身。
ワクワクとレジャーに赴くような気配ではないし、
何より、速足で進む地も
四角い建物や舗装された道の連なる街中ではない、
場末というより未開の荒れ地と言って良いような、
野趣あふれる いわゆる田舎の地であるようで。
利用予定がないままどれほど放置されていたものか、
不法投棄の何やかやがうずくまっているでなし、
夏枯れのせいか何とか踏み分けられる下草をサクサクと小走りに踏破して。
そちらも手付かずなまま生い茂った格好、
月光が青く染める雑木木立のはずれ、不意に開けたところへ出ると、
華奢な人影は警戒もない様子でそのまま歩みを進めたが、
「……っ。」
辿り着いたのは随分と唐突に現れた大きな穴だ。
何かしらの意図や人為で穿たれたにしては何もないところに位置しているのが不可解で、
とはいえ、自然に発生したそのまま風雨に晒され大きく育った代物にしては有り様が不自然。
「……。」
不気味な気配がするでなし、それどころか動植物の気配が周囲にまるでない。
不意な侵入者に逃げ惑う虫もいなければ、
隕石でも落ちて焼かれたか、縁の輪郭を避けるように下生えさえなく、
周囲の木立ちもぽかりと途切れていることさえいっそ不自然が過ぎる。
だのに、ここへ至る途中にも進入禁止といった注意の看板などはなかったし、
この周囲も柵などで囲われてもいない。
結構な規模なのにまだ誰へも…地域の治安系の機関などへ発覚はしていないということか。
「……。」
そういった有り様云々なんぞどうでもいいのか
辿り着いた少女は底がどこにあるのかを覗き込むように双眸をすがめたものの、
それもほんの一瞬で、衒いなく地を蹴るとその身を宙へと躍らせて、
引力に抗うことなく地の底目がけての落下を選ぶ。
白銀の髪がはためいてほおを打ち、
まるで頭上の月が自身をちぎって放り込んだようにも見えたほどに
しごく自然で、一縷の躊躇も衒いもない跳躍だった。
「…。」
穴は相当に深いもので、しかも口径も広い。
何の反応も拾えないのはさすがに不気味か、
ぽっかりと開いていた口からの夜なりの明度も届かぬほどの深みに至ると、
ときおり後背の岩壁を蹴り、対面をまた蹴ってという動作を繰り返す。
加速をつけているものか、それとも様子見をしているものか、
夜目が利く方とはいえ、ある程度まで潜れば周囲は漆黒。
なので、視覚以外で広さを確かめる意味もあるのだろう。
明かりを灯すと敵に気づかれる恐れもあって、
ただただ静かに潜行を続ける。
広さ深さを測っているかのように落下を続けていたものの、
「…っ。」
ふいに何かの気配、疾風のようなものを感じ、
ハッと瞬いて肩越しに後背を見やる。
漆黒のようだが仄かな明るさがあるものか、
元々夜目も鼻も利き、勘もいい彼女はすぐにも周辺を見回すことが出来たようで。
夜のとばりと地底への深みが重なる闇の中、
疾風をはらんで飛んできた何かへ目を凝らし、
下方への進行を優先しつつも身構えたところへ
ひゅひゅんっ、と
加速がわずかに掻き回した空気を嗅いで、振り払おうとしたそんな鼻先、
彼女の手より先に何かが伸びて来て、それらをかつがつと素早く払いのけていて。
「……、…。」
蒸し蒸しする夜気の中、風を切って飛んできた何かがあって、
人の気配もない中にそれでも素早く察した反射は大したもの。
岩壁へと足を着いてサッと躱し、だが落下し続ける“歩み”は止めない。
続けざまに自身へと向かってきた“妨害”に研ぎ澄ませていた反射が起動しかけたが、
それへかぶさった“何か”が先に払いのけた事態へ、
琥珀のような双眸を見張ったのも一瞬。
「…。」
無表情というよりも思いつめたような顔のまま、ただただどこかを目指して急いでいる。
墨を流したようなとはよく言ったもの、上下左右も見失いそうなほどの暗闇の中、
重力だけを標にするかのように、
髪を衣紋を舞い上げはためかせ、落下抵抗で生じる疾風にくるまれて落ちゆく少女を、
「……。」
やはり妨害せんとする何かが追うのへ、
穴に満ちた闇よりなお黒々とした漆黒の鋭い鞭がしなっては
片端から鋭々と叩き落してゆく切れのいい反射もお見事で。
「邪魔をするな、愚者どもめ。」
忌々しいと呟いた別の痩躯がいつの間にか大穴の縁に立っており、
そんな存在へも攻撃が飛ぶが、
こうまで奇矯な場で他者をさりげなく守っているほどの存在。
細い背条を弓なりにしならせての立ち姿も凛としたまま、
飛んでくる礫を次々に、異能の鞭にて難なく叩き落としているのが頼もしい。
結構過激な攻勢へも片手間のような余裕もて、深い淵の底へと潜ってゆく少女を見守りつつ、
こちらも強者であろう存在を青々とした月光が照らしている。
しんと静まり返った宵闇の中、
音もなく気配も何らないままに、だがだが鋭くも容赦のない攻防が繰り広げられていた。
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